
11月9日に亡くなられた大橋純子さんは、
林哲司さんとはアマチュア時代から未来に夢を抱いた仲間でした。
林哲司さんのデビュー50周年公式本「Saudade」では、
大橋さんからの50th AnniversaryMessageを掲載。
ここに追悼の意を込めて、本書に掲載されている大橋さんから林さんへのメッセージを特別に全文公開いたします。
林哲司さんとはアマチュア時代から未来に夢を抱いた仲間でした。
林哲司さんのデビュー50周年公式本「Saudade」では、
大橋さんからの50th AnniversaryMessageを掲載。
ここに追悼の意を込めて、本書に掲載されている大橋さんから林さんへのメッセージを特別に全文公開いたします。
あのころの私たちは外国の音楽が目標でした
哲っちゃんと初めて会ったのは私が21歳のとき、アルバイトで行ったヤマハ音楽振興会でした。すでにヤマハで働いていた今の主人の佐藤健に頼んで働けることになって、ヤマハに行って初めて名刺をいただいたのは、『ライトミュージック』編集部にいた〝林哲司〞さんでした。
私が配属されたのは萩田光雄さんや船山基紀さんがいたLM制作部。ポプコン(ポピュラーソングコンテスト)の応募曲を譜面に起こしたり、デモテープをつくったりしていて、私が仮歌を入れたこともあります。
そのころのヤマハは、哲っちゃんと佐藤、萩田さん、船山さん、増尾元章さんら素晴らしい人材がいっぱいいて、著名なミュージシャンもひんぱんに訪れていたので、音楽と夢にあふれていて楽しかったですね。
とにかく皆洋楽が大好きでした。私も洋楽にあこがれていて、目指していたのは歌謡曲の歌手ではなくポップスシンガー。皆で渋谷の公園通りに夜な夜な集まって、新しいアルバムやアーティストの情報に夢中になって、語り合っていました。そのうちに渋谷PARCOがおしゃれな文化を発信し始めて、いい時代でしたね。
いつだったか、ある映像を哲っちゃんに見せたくて皆と部屋に呼んだことがありました。バート・バカラックの「アルフィー」をスティーヴィー・ワンダーがハーモニカで吹いていたアメリカの音楽番組だと思いますが、感動した哲っちゃんが涙ぐんで。その泣き顔を見ながら皆がジワーッと涙ぐむという。青春でしょ(笑)。
私が歌手になれたのも実はヤマハのおかげで、暇な時間に皆でバンドをやろうということになって、スタジオから、次は会社のロビー、ライブハウスでもやることになりました。船山さんに「フィリップスに先輩がいるから紹介するよ」と言われて軽く考えていたら、ライブを見に来てくださったのは先輩ではなくて、大物プロデューサーの本城和治さん。そして1974年、アルバム『FEELING NOW』でデビューできました。
哲っちゃんに初めて曲を書いてもらったのは、2枚目のアルバム『ペイパー・ムーン』(76年)のオープニング曲の「愛の祈り(Still A Boy)」。今も大好きな素敵なバラードです。3曲目の「キャシーの噂」は評判が良くてシングルカットされましたが、私にはちょっとキャッチーすぎたかな。
シティポップがここ数年騒がれていて、私の3枚目のアルバム『Rainbow』(77年)の、哲っちゃんがつくった「Rainy Saturday&Coffee Break」の人気が高いようですね。私も大好きで当時からライブで歌っていました。実は『Rainbow』の4カ月後に哲っちゃんが自分のアルバム『バックミラー』を出して、そこにこの曲を入れていたなんて知りませんでした。私はてっきり、あっ、いい曲がもらえたなって喜んでいたんです(笑)。
ニッポン放送のスタジオで、PMPさん(現フジパシフィックミュージック)のデモテープに歌を入れたのも思い出に残っています。そのなかの「If I Have To Go Away」が海外で評価されて、「スカイ・ハイ」のジグソーが歌って英米でチャートインしたと哲っちゃんがすごく喜んで、私に感謝の言葉をかけてくれました。
ただそのころはまだ、日本の音楽業界はポップスには至っていませんでした。私の最初のヒット曲は78年の「たそがれマイ・ラブ」(筒美京平作曲)なんですが、ポップスにこだわっていた私にとってはちょっと歌謡曲ぽかった。その前年の「シンプル・ラブ」(佐藤健作曲)が評価されていただけに、〝ああ、今はこれじゃないんだけど〞って感じていました。哲っちゃんも、ヤマハの皆もそれぞれ同じような経験をしていたでしょうね。
80年くらいからはお互いの仕事が忙しくなって会わなくなってしまって、哲っちゃんが大ヒットメーカーになった80年代半ばは、私はニューヨークに住んでいたので、活躍を知らないんです。だからその時代の曲は「えっ、知らないの?」なんて言われるのもしばしば(笑)。
2023年の1月に、何十年かぶりに六本木のコンサート(『THEシティポップ in 六本木』)で会いましたが、まったく変わっていなかったですね。会えば20代のころのまま。「じゅんぺい」、「哲っちゃん」って呼び合って。口調も同じでした。50周年を迎えても哲っちゃんはシンガーソングライターにこだわっていて、作曲家として大御所と言われていてもなお、歌っているのはすごいことです。本当に気持ちは変わっていないんです。
今、哲っちゃんや私の作品がシティポップとして海外でもてはやされていることは本当に不思議だけど、嬉しいことですね。「Rainy Saturday&Coffee Break」にしても、思わぬ注目のされ方です。でも思えば、あのころの私たちは外国の音楽が目標でした。基本的に外国の曲がお手本。だから今、海外の方が私たちの曲を聴いて、素直に吸収してくれているのもわかるような気がします。特にシングルではなくアルバム用の曲は、自分たちが求めるセンスでつくることができた。海外の方もそこに気がついているんですね。そういえば私は4枚目のアルバム『クリスタル・シティー』の帯に〝シティーミュージックの本格派〞と書き込んでいました。そのあたりから評価されていることはおもしろいですね。
私は来年2024年が50周年。あっ、哲っちゃんのほうが1年先輩(笑)。1月のステージで相変わらずの感じで歌っているのを見て、そのまま行ってほしいと思いました。若いころのまま、悔いのないように思ったことをやってほしいですね。
【2023年2月8日インタビュー】
大橋純子(おおはし じゅんこ)
ポップスシンガー。1974年デビュー。77年『大橋純子と美乃家セントラル・ステイション』として「シンプル・ラブ」が話題に。その後「たそがれマイ・ラブ」「シルエット・ロマンス」等、ソロシンガーとして不動の地位を築く。
私が配属されたのは萩田光雄さんや船山基紀さんがいたLM制作部。ポプコン(ポピュラーソングコンテスト)の応募曲を譜面に起こしたり、デモテープをつくったりしていて、私が仮歌を入れたこともあります。
そのころのヤマハは、哲っちゃんと佐藤、萩田さん、船山さん、増尾元章さんら素晴らしい人材がいっぱいいて、著名なミュージシャンもひんぱんに訪れていたので、音楽と夢にあふれていて楽しかったですね。
とにかく皆洋楽が大好きでした。私も洋楽にあこがれていて、目指していたのは歌謡曲の歌手ではなくポップスシンガー。皆で渋谷の公園通りに夜な夜な集まって、新しいアルバムやアーティストの情報に夢中になって、語り合っていました。そのうちに渋谷PARCOがおしゃれな文化を発信し始めて、いい時代でしたね。
いつだったか、ある映像を哲っちゃんに見せたくて皆と部屋に呼んだことがありました。バート・バカラックの「アルフィー」をスティーヴィー・ワンダーがハーモニカで吹いていたアメリカの音楽番組だと思いますが、感動した哲っちゃんが涙ぐんで。その泣き顔を見ながら皆がジワーッと涙ぐむという。青春でしょ(笑)。
私が歌手になれたのも実はヤマハのおかげで、暇な時間に皆でバンドをやろうということになって、スタジオから、次は会社のロビー、ライブハウスでもやることになりました。船山さんに「フィリップスに先輩がいるから紹介するよ」と言われて軽く考えていたら、ライブを見に来てくださったのは先輩ではなくて、大物プロデューサーの本城和治さん。そして1974年、アルバム『FEELING NOW』でデビューできました。
哲っちゃんに初めて曲を書いてもらったのは、2枚目のアルバム『ペイパー・ムーン』(76年)のオープニング曲の「愛の祈り(Still A Boy)」。今も大好きな素敵なバラードです。3曲目の「キャシーの噂」は評判が良くてシングルカットされましたが、私にはちょっとキャッチーすぎたかな。
シティポップがここ数年騒がれていて、私の3枚目のアルバム『Rainbow』(77年)の、哲っちゃんがつくった「Rainy Saturday&Coffee Break」の人気が高いようですね。私も大好きで当時からライブで歌っていました。実は『Rainbow』の4カ月後に哲っちゃんが自分のアルバム『バックミラー』を出して、そこにこの曲を入れていたなんて知りませんでした。私はてっきり、あっ、いい曲がもらえたなって喜んでいたんです(笑)。
ニッポン放送のスタジオで、PMPさん(現フジパシフィックミュージック)のデモテープに歌を入れたのも思い出に残っています。そのなかの「If I Have To Go Away」が海外で評価されて、「スカイ・ハイ」のジグソーが歌って英米でチャートインしたと哲っちゃんがすごく喜んで、私に感謝の言葉をかけてくれました。
ただそのころはまだ、日本の音楽業界はポップスには至っていませんでした。私の最初のヒット曲は78年の「たそがれマイ・ラブ」(筒美京平作曲)なんですが、ポップスにこだわっていた私にとってはちょっと歌謡曲ぽかった。その前年の「シンプル・ラブ」(佐藤健作曲)が評価されていただけに、〝ああ、今はこれじゃないんだけど〞って感じていました。哲っちゃんも、ヤマハの皆もそれぞれ同じような経験をしていたでしょうね。
80年くらいからはお互いの仕事が忙しくなって会わなくなってしまって、哲っちゃんが大ヒットメーカーになった80年代半ばは、私はニューヨークに住んでいたので、活躍を知らないんです。だからその時代の曲は「えっ、知らないの?」なんて言われるのもしばしば(笑)。
2023年の1月に、何十年かぶりに六本木のコンサート(『THEシティポップ in 六本木』)で会いましたが、まったく変わっていなかったですね。会えば20代のころのまま。「じゅんぺい」、「哲っちゃん」って呼び合って。口調も同じでした。50周年を迎えても哲っちゃんはシンガーソングライターにこだわっていて、作曲家として大御所と言われていてもなお、歌っているのはすごいことです。本当に気持ちは変わっていないんです。
今、哲っちゃんや私の作品がシティポップとして海外でもてはやされていることは本当に不思議だけど、嬉しいことですね。「Rainy Saturday&Coffee Break」にしても、思わぬ注目のされ方です。でも思えば、あのころの私たちは外国の音楽が目標でした。基本的に外国の曲がお手本。だから今、海外の方が私たちの曲を聴いて、素直に吸収してくれているのもわかるような気がします。特にシングルではなくアルバム用の曲は、自分たちが求めるセンスでつくることができた。海外の方もそこに気がついているんですね。そういえば私は4枚目のアルバム『クリスタル・シティー』の帯に〝シティーミュージックの本格派〞と書き込んでいました。そのあたりから評価されていることはおもしろいですね。
私は来年2024年が50周年。あっ、哲っちゃんのほうが1年先輩(笑)。1月のステージで相変わらずの感じで歌っているのを見て、そのまま行ってほしいと思いました。若いころのまま、悔いのないように思ったことをやってほしいですね。
【2023年2月8日インタビュー】
大橋純子(おおはし じゅんこ)
ポップスシンガー。1974年デビュー。77年『大橋純子と美乃家セントラル・ステイション』として「シンプル・ラブ」が話題に。その後「たそがれマイ・ラブ」「シルエット・ロマンス」等、ソロシンガーとして不動の地位を築く。